土佐錦魚解説

土佐錦魚の由来と歴史

土佐への金魚伝来
須賀家に伝わる「土佐錦魚元祖」
須賀家に伝わる文書「土佐錦魚元祖」
 現在の高知市で金魚が飼育されるようになったのは、江戸時代の後半と伝えられています。山内家家老:乾氏の与力とされる須賀氏が江戸から高知に金魚を持ち帰って、飼育を始めたのが起源ではないかとされています。

 文化・文政の頃(1800年代初め頃)には、他の地域と同様に、城下において武士の手による副業として、金魚の飼育は盛んに行われていたようですが、高知城の南与力町で代々金魚の養殖を行っていた須賀家には、「土佐錦魚元祖」と題された文書(弘化2年:1845年)が残っていて、ここに「土佐錦魚」の名称を見る事が出来ます。

 この文書に描かれているものは、今の地金(六鱗)によく似た長い体形の金魚ですが、尾が水平に近く、左右もやや張り出しており、切れ込みの浅い三尾ですので、現在の土佐錦魚に通じる姿ともとれます。
 当時は完全に固定した品種として、「土佐錦魚」と称していたのではなく、書物の表題は、これらの魚を含めて、「土佐の金魚」との意味であったのかもしれません。

土佐錦魚の品種固定
背鰭の無いトサキンの不良魚背鰭の無い不良魚
 土佐錦魚が品種として確立したのは、明治時代です。作出は須賀家の須賀亀太郎氏(1856〜1937年)で、親骨の張りの強い「琉金」と「大阪らんちゅう」を交配したものから、さらに改良を重ねて、現在の姿に近い金魚に固定したとされています。
 
 以前は土佐錦魚の品種作出を、「琉金の突然変異」とする書物もありましたが、現在の土佐錦魚を繁殖させてみると、稀に背鰭のないものが生じる事からも、土佐錦魚の起源には「琉金」の他に、平付け尾を持つ「大阪らんちゅう」が関わっていると考えるのが妥当なようです。
 (右の写真は土佐錦魚の仔の中から出た背鰭の無い個体)

 須賀亀太郎氏の家に伝わっていた地金によく似た伝来の金魚が、「土佐錦魚」の作出過程で関わった事を示す資料は残っていないようですが、どちらにしても「琉金」と「大阪らんちゅう」の交配から、これほど独創的で美しい形質を引き出して、なおかつ固定する事は、須賀亀太郎氏の芸術的な感性と努力の結晶と言えます。

 ただし、この当時の土佐錦魚は現在の土佐錦魚とは少し異なり、尾の親骨の両端が前方に張り出した「海老尾」と呼ばれる姿だったようです。
その後の土佐錦魚
土佐錦魚見競鑑
土佐錦魚見競鑑(昭和4年11月)
 高知での品評会は、大正の初め頃より開催されていたそうですが、当初は神社や公園などで場所を変えて行われていたようです。

 品評会の記録などは戦時中に空襲で消失していますが、唯一現存している土佐錦魚会の品評会での番付表「土佐錦魚見競鑑」:(昭和4年11月23日、高知市新開地で開催)には、やはり「土佐錦魚」の文字が使われています。

 また、この番付表を見ると、興味深いことに「三年魚」、「弐年魚」、「当年大魚」、「当年中魚」、「当年小魚」と、5部門を設けて審査をされているようです。

土佐錦魚の危機
 高知市近郊の限られた地域で飼育されてきた土佐錦魚は、地金魚の特殊性から、昭和20年の戦災と翌21年の南海大震災で絶滅の危機に瀕しています。
 高知大空襲は昭和20年7月4日の未明から始まり、市内一面を焼け野原としたそうです。これによって土佐錦魚の数は激減しましたが、さらに、翌21年12月21日の南海大震災では、地震の被害に加えて、直後の激しい津波も加わり、壊滅的な状況であったそうです。

 特に震災直後には、土佐錦魚は絶滅したかと思われましたが、須賀亀太郎氏(昭和12年没)とも親交があり、土佐錦魚を今に伝える功労者として語られる田村広衛氏が、高知市桜井町の料理店「鏡水楼の店主の自宅で、海水がひききらない中、傾いた鉢に僅かに生き残っていた6尾を発見したそうです。
 譲ってくれるように交渉しましたが断られ、何度も通い詰めた結果、焼酎となら取り替えるとの事で、以前疎開していた高岡郡越知町の奥地まで自転車で走って取り寄せ、これと取り替えたものから再び増やしていったそうです。

 この時の6尾は、3歳魚が2尾と2歳魚が4尾で、今に伝わる土佐錦魚はこの6尾に繋がるとされています。その他に高知城の西部では比較的被害が少なかったため、そこで生き残った土佐錦魚もあったかもしれませんが、どちらにしても、これらの数少ない土佐錦魚が元になっている事に変わりはなく、特に血が濃くなっており、体質的に弱いのはこれが原因ではないかと言われています。

 また、この田村氏は当時の土佐錦魚の振興の中心的人物でしたが、この時代に土佐錦魚は今見られるような尾型に改良され、「横綱前」と呼ばれる力士が四股を踏んだ今の尾の姿に完成されています。

高知県天然記念物土佐錦魚
 土佐錦魚は昭和44年8月8日、高知県天然記念物に指定されています。申請者は野中進氏です。
 ちなみに、「地金(六鱗)」は昭和33年に愛知県天然記念物に、「いづもナンキン」は昭和57年に島根県天然記念物に指定されています。

 
また、昭和46年には矢野忠保氏によって、東京を中心に稚魚の分譲が行われています。これ以降、全国に飼育が広がる事となりました。

丸鉢ライン

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